いろいろな派のこと
※追記です(この記事は信仰を持ってから約二年後に書いています。)
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キリスト業界にはいろいろな派があり、
プロテスタントの中でも神学的、考えが異なっています。
今、私は福音派寄りです。
主にハーベストタイムミニストリーの動画で学んでいます。
追記したいのは、
私が救われたきっかけとなった元悪魔崇拝者の証しの動画についてです。
このリーハイバレージャパニーズミニストリーというチャンネルは、聖霊派的です。
聖霊派からは、わかりやすい信仰のイメージ、神への熱心さを体験的に学ぶことができ、とても良いのですが、
行き過ぎてしまう面もあると思います。
私自身の経験ですが、たとえば、いくつかあります
・奇跡を祈り求めることだけに捉われてしまう。
自分のエゴによって奇跡が実現することに心を奪われてしまう。
叶うか叶わないかは、神様の御心があり、神はいつも最善を成してくださっているので、祈ったら結果は委ねるものだけれど、奇跡や癒しを起こすための自分の祈り方に関心がいき、祈り方で結果をコントロールできるかのような錯覚に陥る
・悪霊の追い出しについて。
悪魔は聖書に書かれている通り、実在しますが、クリスチャンが悪魔に憑かれることはない。新約時代の聖徒に悪魔祓いをしなさいという命令はないので、それがメインになることはないと思われる。(悪魔を完全に封印することができるのは、黙示録の預言が成就する未来において、神様が直接なされる)
悪魔に関心をもち過ぎて過度に恐れたり常に気にしてしまうより、「神を愛し、人を愛する」こと、福音、に意識を集中したい。
・聖霊の満たしを求める聖会について
特別な体験がないと、自分は足りないんじゃないか?という不足感を感じてしまう。
信じた者に聖霊は与えられている。聖霊の満たしは、自分を明け渡し、真摯に祈り求めるなら、神様の時にかなってなされるのでは?特別な集会は、それがないとダメっていうことはないと思う
自分は恥ずかしながら、
これらにつまづきましたが、つまづくことも初心の信仰の学びでした。
(聖霊派を否定するのではありません。奇跡体験に対する過度な期待への注意です。実際に奇跡や癒しは現代もあると思っています。)
逆に、福音派であっても知識偏重で満足してしまい、いつのまにか学びだけで終わって机上クリスチャンになってしまうのであれば、それは残念で悲しいことです。
聖霊派にある情熱や感動、ダイナミックなパワーみたいなものの素晴らしさ、から得るものも大きいです。
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すみません、複雑なのですが
せっかくなので、
もう一つの派について書いておきます。
リベラル派=自由主義神学というのがあります。
こちらは福音派や聖霊派の信じる「聖書は神の霊感によって書かれた、誤りなき神の言葉」
とは違い、
「聖書は、人間が書いたのだから誤りもある」という立場です。
代表的なのは、
『創世記は神話だ。イエス様の奇蹟は例え話だ。悪霊はいない。』
などです。
現在の日本には、大きな教団や大学、神学校などにもこのリベラル派=自由主義神学が存在しています。
福音主義から見ると、なぜリベラル派は「神様がいる」という奇蹟・超自然を信じているのに、同じ神がなさった出来事は信じられないんだろう?と疑問を感じてしまいます。
ヘブル的背景から福音的に聖書を読むと、
奇跡体験を求めすぎるような繁栄の神学・ご利益信仰に気をつけつつ、
また
リベラルのような不信仰・人間的視野から脱して
神様の側から見た視点、やはり正しい聖書解釈だなぁと
改めて思います
そのうえで、知識だけで終わらず、
神への愛と御心を行うこと、バランスが必要かもしれません
以上自分の考えも入れて書いてみました