あなたは愛されている。

すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう

日本人とキリスト 宗教 救い

かつて私の神のイメージは、ただ無口で恐ろしく、

機嫌を損ねたら怒り全開で自然災害を引き起こすイメージでした。日本的でしょうか。

 

だから、私たちを愛していて、人格をもった神がいるなんて知りませんでした。

よく英語でGOD BLESS YOUと言いますけど、西洋では[神=祝福する神。恵みの神]であることも

一般的なのですね。日本人にはなじまない概念です。

 

以前の私は日本人のプライドもあって、外国のものはちょっと、、みたいな感じもありましたし、

それに聖書とかキリスト教は、十字架のイメージ、エホバの勧誘によって、良くないイメージがありました。

(※エホバの証人ものみの塔はキリストを名乗るカルト団体で、キリスト教から認められていません)

彼らは優しそうで真面目な人たちだけど、愛でなく神のさばきへの恐れを強調していたし、自己犠牲や苦しそう・弱々しい・真面目・暗い・つまらないイメージがあって、全く興味がなかったんです。

 

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でもほんとうのキリストを信じることはそうじゃなかった。

クリスチャンには揺るがない愛・喜び・希望・平安があったのです。

(もし、いつも暗く鬱々とした、苦しみしかないようなクリスチャンがいるのなら、それは悲しいことですが、本来のキリストから外れてしまった宗教的キリスト教だと思います。)

 

私はキリスト信仰を宗教とは捉えてないんですね。

(分類として宗教のカテゴリーなのでそうなのですが…)

宗教というと、私の中では

誰か偉い人を指導者として崇める集団。全員が全く同じ教えに従うというイメージです。

その教えに従い、戒律を守れば救われる=幸福になれるという感じです。

守れないと救われない=不幸になる。

幸せになるためには人の行いを必要とします。

 

 

他の宗教と違うのは

最初に救いがあることです。

普通の宗教では行いがあって、それができた人に救いが与えられますが、

キリストの救いは、すべての人に無条件で与えられています。

それを受け取るだけです。

それが愛であるゆえなのです。

そこに信じた者の喜びがあります

 

 

ヨハネ福音3章16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

 

私の中には、

神と私の一対一の個人的な関係があるだけで、それがすべてなのです。

クリスチャン一人ひとりに、それぞれの神との生きた関係があります。

 

神は生きておられて、愛のあるお方で、

まず神が私たちを救ってくださった。愛されている。という関係から始まって、

人が愛に生きることを望まれ、導かれます

 

それはまず聖書を通して語られます。

そして日常生活や人間関係を通して

神の力・愛によって変えられていきます

 

 

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クリスチャンでも

本来の神の救いから離れて

自分で宗教化してしまうことがあります

それは真面目で宗教的な日本人に多いと言われていますが

救われたはずなのに、

自分の力で・良い行いをしようとしてがんばってしまうことです。

 

ですが、罪の性質のある人間には、自分の力で自分を救うことはできないと聖書には書かれています。

宗教的行いとは全く違うものなのです。

 

自分の救いも、自分が変えられていくのも

信仰と恵みによってのみ。

神の力と愛によってのみであることを

信じて受け取るだけです