私の証し④(~洗礼まで)
教会に通っています
まず主目的ですが、神を礼拝します。賛美を捧げ、祈ります。
臨在といって、神がこの場に臨まれている感覚があります。心に触れてくださっている、愛されている、満たされているような感じ、胸が温かい。心地よい。何かわからないけど感動して涙が出たり、癒されているような、うまく説明できないのですが、そんな時なのです
(言葉で表現するのが難しいです。カルトではないですよ。普通のプロテスタントの教会です。賛美歌はワーシップという現代風です)
家で一人で祈ったりするのとまた違い、人々と一緒に、神への喜び・感謝の中、愛に包まれるこの交わりを求め、毎週教会に行きたいと思わせてくれる神の力でもあります。
また必然的に教会の人たちと交わります。
(ほんとに普通の人たちです。暗くもなく、新興宗教によくある不自然な変な明るさもないです。)
自分は対人恐怖なので、通い続けていてもしばらくは恐れ・不安・緊張が強くありました。
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特に神に祈り続けたのは、対人恐怖である自分の課題でした。
「自分が神様に愛されていることを、心から実感できますように。」
「神がともにいるので、人を恐れない平安を与えてください。」と。
エレミヤ31:3
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
イザヤ54:10-14
たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない
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恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。
イザヤ41:10
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
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信徒さんの優しさや助けがあり、
聖書のみことばを通して、互いに愛し合うことを教えられ、
また心の傷と向き合い、徐々に変えられていってます
自分の問題が癒されていく過程において、
みことばを通して気づくことは
人への恐れ不安は、
自分のことだけを考えたり、自分を優先したい自分の傲慢や、
他人へのさばき、疑いがあることが見えてきました。
どうしても人を信じれない自分がいましたが、
神の、互いに愛し合いなさいという命令があることによって、
教会に来ている人たちを信頼してみようと思うことができます
そしてついに洗礼を受ました。
洗礼は水に沈められ、キリストともに死と復活にあずかり、公に人の前でキリストのうちにあるものとして意を表すことです
心に確信と平安が与えられたのがわかりました。まだ心を覆っていた暗さ・重さが取り去られた感じです。神の御手の中に安息している確信です。
救いは信じた時に与えられていますが、確信の弱い私に、神様は洗礼という公の場を通して、信仰の恵みをさらに与えてくださいました。
Ⅰヨハネ1:19
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。